世界の終わり『幻の命』歌詞考察

『幻の命』

作詞:深瀬慧

作曲:藤崎彩織

 

 1番で「白い病院で死んだ幻の命」に「夢で逢えたらと蒼い月に祈る」という情景が描かれる。流産してしまい、悲しみに打ちひしがれる「僕」の様子が目に浮かぶ。この曲の最後の部分で、この日付がApril 30, 2005であり、子どもに"TSUKUSHI"と名づけたことが書かれているため、妙にリアルであり実話なのでは?と疑ってしまう。しかし、音楽とはアートである。伝えたいことをフィクションに置き換えることで、単なる説明以上の説得力を持たせることができるのである。そのため本考察では、あくまで「流産してしまって悲しみに暮れる」という状況は、何かを伝えるための「フィクション」と捉える。

 では、このフィクションは何を表しているのか。それは、「もう世界の終わりだ・・・」という絶望であると考える。作曲者のFukaseは、精神病を患い「世界の終わりだ」と絶望したところから這い上がろうと音楽を始めた。それがバンド名「世界の終わり」になっており、「絶望からの立ち上がり」が多くの曲に共通するコンセプトとなっているのだ。

 「幻に夢で逢えたら それは幻じゃない」とまで言うほど、「僕」は子どもへの愛と喪失感でいっぱいになっている。「僕もいつの日か星になる 自由が僕を見て笑う」は、僕もいつか死ぬし、その時はこの絶望からも解放されて自由になる、という意味だろう。

 2番の部分は、全体的に暗い印象が立ち込める。「僕を連れて消えていく」「何も感じない」とあることから、絶望により「僕」は気が遠くなり、無感覚状態に陥っているのではないだろうか。1番以上に「僕」の状態が危うくなっているように見える。

 2番の後、少し長めの間奏が入る。無感覚で神経が麻痺したような、静かなメロディがピアノで奏でられる。しかし徐々にクレッシェンドしていき、エレキギターも加わって一気にクライマックスへと駆け上がる。

 そこで再度、「幻に夢で逢えたら それは幻じゃない」と歌い上げる。今度は何かを確信して言っているような印象だ。「僕が幻になれた夜 白い星が空に降る」では、僕が現実世界からついに解放され、自由になり、星の世界へと昇華されたように見える。

 そして最後、英語の歌詞で日付や子どもの名前が明かされるが、「the red moon blazing beatifully」と美しい表現で描かれることから、やはり月や星といった宇宙の世界へと昇華していくイメージが思い描かれる。

 「君のパパとママの歌」と締め括られることから、やはりこの歌の主人公は子どもではなく、絶望から無、そして天への昇華に至った「僕」であると確信できる。

 

 『幻の命』では、「世界の終わりだ」と絶望するところから、「天」へと昇華するところまでが描かれた。これは、ボーカルのFukaseが精神病から立ち直る個人的復活劇に端を発していると思われるが、歌としてはファンタジーを用いて非常に抽象的に描かれている。セカオワの曲は、他の曲もバンドの歴史になぞらえたものが多く、ナルシストな印象を受けるかもしれない。しかし、セカオワの魅力とは、この個人体験をグッとクローズアップして抽象化することで、そのままバンドのコンセプトにしてしまっているところである。セカオワの世界は、まさに「世界の終わり」と言うゼロ点を活動の原点としており、「世界の終わり」という抽象的な枠組みをもって世界を捉える、という思考法こそがバンドとしての唯一無二の個性となっていると思う。

 

※参考文献: 『SEKAI NO OWARIの世界: カリスマバンドの神話空間を探る』(中村圭志 著)